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426年~428年にかけて、北魏が夏に侵攻をし、夏の首都・統万城を陥落させます。
この侵攻により、夏は統万城はじめとするオルドスエリアを北魏に奪われます。君主の赫連昌も北魏に捕らえられ、関中も一時は長安をはじめかなりの部分を制圧されてしまいますが、赫連昌のあとに君主の座に着いた赫連定がなんとか踏ん張り、関中の北魏軍を撃退、長安も取り戻します。
しかし、関中とオルドスを制し、後秦亡きあと華北西部の大国になっていた夏は、関中周辺のみのエリアにまで衰退してしまいます。
またもや、華北西部のパワーバランスが大きく変わるなか、沮渠蒙遜の北涼のライバル的な存在であった、西秦の君主・乞伏熾磐が428年5月に死去します。
この何年かは西秦から攻められる立場であった北涼ですが、乞伏熾磐の死により反撃のチャンスが訪れます。
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沮渠蒙遜、さっそく西秦に侵攻する
乞伏熾磐の跡は、息子の乞伏暮末が継ぎます。
西秦が乞伏熾磐の葬儀を行っているとき、沮渠蒙遜はこの隙をついて動き出します。
428年6月、西平や楽都がある西秦の湟河周辺に侵攻します。
湟河周辺はかつて南涼が本拠地にしていたエリアです。この時期は西秦が占領していました。
沮渠蒙遜は、まず西平を攻略しようとしますが、西平太守の麴承が沮渠蒙遜に「先に楽都を攻略されましたら、うち(西平)は、かならず御社に降伏いたします」
と、計略なのか身内を売ったのかわからない発言をします。
沮渠蒙遜はこの言葉を受け、矛先を楽都に向けます。
西秦は、相国の乞伏元基に三千の兵を与え、救援に向かわせます。
乞伏元基は楽都に入城し、徹底抗戦の構えを見せます
やがて北涼軍が楽都に至り、攻城戦がはじまります。北涼軍はまず楽都の外城を制圧し、水の手を絶ちます。これにより、城内は飢えるもの、渇くものが続出し「太半(3分の2)」が死んだようです。
しかも、城内のもので北涼に通じるものがおり、北涼軍を城内に引き入れ、数百の北涼兵が城内に侵入してきます。乞伏元基はこのような絶望的な状況でも奮戦し、とうとう北涼軍を退却させることに成功します。
北涼と西秦、いったん和睦
さて、なんとか北涼軍の楽都侵攻を撃退した西秦ですが、このピンチを切り抜けるため、先代・乞伏熾磐の遺言を思い出し、以前捕虜にしていた北涼の沮渠成都を返却するので、和睦しようということを沮渠蒙遜にもちかけます。沮渠成都は沮渠蒙遜に重用される人物だったので、北涼側もこの申し出を受け、和睦が成立しました。
北涼、再度西秦を攻める
西秦はなんとか、北涼からの攻撃をしのぎますが、乞伏暮末が跡を継いだあとから、国内の状況がぴりっとしません。
428年10月には、乞伏暮末の叔父にあたる乞伏千年が、北涼に投降してしまいます。
そして、12月に早くも、沮渠蒙遜は和睦を破棄し西秦侵攻の兵を再度起こし磐夷に至ります。ここも西秦は乞伏元基が5千の兵で北涼軍を迎え撃とうとします。
乞伏元基相手では分が悪いと思ったか、沮渠蒙遜は兵を返し西平を攻撃しようとします。
これに対し、西秦は出連輔政に2千を率いさせ救援に向かわせます。
しかし429年の1月になっても出連輔政は西平にたどり着けず、北涼軍はとうとう西平を陥落させ太守の麴承を捕らえます。
これにより、湟河エリアは北涼の手に落ちます。
北涼、西秦に大攻勢をかける
429年、5月になると、沮渠蒙遜は西秦の息の根を止めようと、再度西秦侵攻の兵を起こします。
西秦、伝家の宝刀遷都作戦で北涼軍を迎え撃つ
この北涼の侵攻に、西秦君主・乞伏暮末はその時点での首都・枹罕を乞伏元基に守らせ、定連に本拠地を遷します。
これが西秦名物「遷都」です
西秦は創業時から国難になるたびに本拠地を遷していき命脈を保ってきています。今回も北涼の圧力により遷都を行いました。
この北涼の攻勢に西秦国内も混乱し南安太守・翟承伯、西安太守・莫者幼眷などが反乱を起こします。
乞伏暮末はこれらの反乱にも対処していかなくてはならなくなりました。
西秦、まじで亡国寸前までいきますが、ここで粘り腰を見せます。いや、もしかしたら沮渠蒙遜の相変わらずの攻め戦ベタが出たかもしれません。
北涼軍は枹罕まで軍を進め、沮渠蒙遜は跡継ぎの沮渠興国に定連を攻めさせます。乞伏暮末は治城というところで沮渠興国を逆撃し、これを捕らえます。そして北涼軍を追撃し譚郊に至ります。
この北涼侵攻に呼応し吐谷渾も5千の兵で西秦を攻撃しますが、乞伏暮末は輔國大將軍・段暉を派遣し、吐谷渾を大破します。
沮渠蒙遜、西秦をあと一歩のところまで追い詰めながらも、攻略に失敗してしまいます。しかも跡継ぎを西秦に捕らえられてしまいました。
沮渠蒙遜、沮渠興国の返却を拒否られる
この後、沮渠蒙遜は西秦に30万の穀物を送り、沮渠興国の返却を求めますが、西秦君主・乞伏暮末は許しません。沮渠蒙遜は仕方なく、跡継ぎを沮渠菩提に変更します。よく跡継ぎが変わる国です。
沮渠興国は乞伏暮末に気に入られたのか、散騎常侍に任命され、乞伏暮末の妹の平昌公主を妻に娶らされます。
429年~430年にかけての華北の動き
さて、429年~430年にかけても華北は北魏を中心に大きく動いていきます。
北魏と夏
太武帝の天才性のもと、征服戦争を続けていきます。
429年には北に跋扈する柔然に大攻勢をしかけます。その後、430年にかけて、華北西部では河南を攻略していき、宋と戦います。
同時に華北東部では夏にとどめを刺さんと攻撃をしかけ、夏も対抗しようとしますが、430年が終わる頃には関中のほぼ全域を制圧し、夏軍を壊滅させるまで持っていきます。
東と西の2方面で侵攻作戦を継続できる北魏の国力はこの時点で相当なものになっていたのでしょう。
西秦
夏や北涼に攻撃を受け、国力がだいぶ落ちてきたところに、一族が反抗し粛清するという負の連鎖が次々起こります。
そして国内混乱しているところに西から吐谷渾も攻めてきます。
まさに息絶え絶えの乞伏暮末は北魏を頼り、国を挙げて北魏近くの平涼・安定への移住を認められます。まず東の上邽へ向け移動を開始しますが、夏の兵に阻まれ途中の南安の地に留まざるを得なくなります。
しかも南安でもその地の羌族が反乱をおこし、後仇池に手を貸してもらいなんとか鎮圧するという泣きっ面に蜂状態になります。
ほんと滅亡一歩手前になっています(´Д`)
そして431年へ
このように華北は北魏が勢力を大拡大し、夏と西秦は滅亡寸前の状態になっています。
そして431年になるとさらに北魏が強大になる出来事が起こります。
そして沮渠蒙遜もそろそろラストスパートのときを迎えていきます。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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